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代表 伊藤「私の履歴書」全30話

私のこれまでの人生を綴った「私の履歴書(自分史)」を作成し連載(全30話)していく予定です。

ホームページに訪問していただいた方に、私の「人となり」をより深く知っていただくことと、私の人生にふれていただくことで読者の皆様の生き方、仕事と人生について少しでも参考になるシーンがあればうれしいなという気持ちで連載しようと考えました。

日本経済新聞に連載されている「私の履歴書」を監修している先生に初回全文と30回の要旨と見出しについて添削指導をいただきました。(日経アカデミアの講座に参加しました)

自分史という位置づけですので、すべてノンフィクションです。

毎月一話ずつ公開できるよう鋭意執筆中ですので楽しみにしていてくださいね!

 

  第1話 初めてのパトカー(迷子と間違えられ警察へ)

第1話 初めてのパトカー(迷子と間違えられ警察へ)画像

昭和43年8月、名古屋市内で生まれた。小さいころから活発だった私は、3歳のとき、急に幼稚園に通う姉を迎えに行きたくなり、一人でトコトコ歩きだした。実際は幼稚園の送迎バスがあり、迎えに行く必要はない。幼稚園まではまっすぐに歩いて10分ほどの道だが、幼稚園を通り過ぎ、さらに進んだ民家の前で、

「トイレ行きたい」と知らないおばちゃんに言ったらしい。

トイレを借りているときも泣くわけでもなかったが、一人で歩いていた私のことを、親切なおばちゃんは「迷子ではないか?」と思って警察に通報してくれた。やがて到着したパトカーに乗せられ名古屋・北警察署へ連れて行かれた。

警察官が私にいろいろと話しかけてくれたことにちゃんと答えていたようだ。「名前は?」「いとうあきこ」「何歳ですか?」「さんさい」「どこに行こうとしていたの?」「ようちえん」

通常迷子は泣いて答えられないことが多いのだろうが、楽しそうに答えていた私に警察官も感心していたようだ。

それもそのはず、初めて乗るパトカーに家族の心配をよそに大興奮。パトカーの中を後部座席から隅々まで眺めていた。「トランシーバーみたいなので話している!」「こんなところに機械がたくさんついている」「後ろのシートってふかふかだ」などとまるで初めての家に招かれたようなワクワク感でいっぱいだった。

こんな様子だったのでまったく悪びれることもなく、母が迎えに来た時も泣きもしなかった。それどころか、パトカーに乗車した興奮冷めやらず、「パトカーに乗ったよ!ピーポーピーポーってサイレンなってたよ」と笑顔で話していた。

もともと父が自動車修理の会社を経営していたので、小さい時から車に興味を持っていた。

近くの国道を走るトラックや特殊自動車のタイヤの数を数え「今日はタイヤ26個ある車見たよ!」と毎日のように母に伝えていた。

車のエンジンなどの部品やデザイン、排気量とかは全くわからないが、タイヤの数には興味があった。タイヤが多い車は特殊車両を運ぶものが多く、珍しい車を見ることができたのでとても楽しかった。ほぼ毎日のように「車見に行く」と言っていたようだ。

家族はこの迷子事件で、亜貴ちゃんは、一人で行動する子だからちゃんと見てないと何するかわからないと心配した。祖母、叔母、母の3人から日々注意を受けるようになった。当時は、姉を迎えに行くという行動によって一人でそんなこともできるえらい子だとほめてほしかったのかもしれない。

私はそのころ、母に病院に連れていかれた。

別に熱もなく、どこか痛いわけでもない。「この子は大人びていてあれこれとなんでもやろうとする。3歳の子どもらしくないから心配だ。どこかおかしくないか」と思ってのことだった。

かかりつけのお医者さんは聴診器を首にかけながら、母にこう言った。「この子は賢い子でどこも悪くないよ、上手に育てなさい。とても優秀な子になるよ」。

それを聞いた母は安心して、それまで通り好きなように過ごす私を見守ってくれるようになった。

この経験から、好奇心が旺盛で、行動力があることはいいことだが、いつの時代も猪突猛進だけというのは控えるべきであり、よく考えて行動することが大切だということを学んだ。そして、年齢にそぐわないことをすると親は子の精神状態を案じて病院へ連れていくことを学んだ。

 

  第2話 毎日病院に通う小学生(骨折、喘息、極度の乱視を克服)

第2話 毎日病院に通う小学生(骨折、喘息、極度の乱視を克服)画像

小学校3年生のとき喘息を患い2週間学校を休んだことがある。2週間も学校を休んだのは初めてのことだった。授業の内容についていけず「勉強がわからない」という不安を初めて感じた。

幸いにも喘息はそれ以降発症することはなかったが、これを機に何か運動をするといいというアドバイスがあり小学校4年生から加入できる部活動でソフトボール部に参加することになった。

健康体を維持しつつ スポーツを楽しんでいる時間がしばらく流れたが、5年生のときに生まれて初めてスケートに連れて行ってもらった時、初心者でも特に教室に入るわけでもなく、手すりにつかまりながら少しずつ歩く感じで滑っていた。

手すりから離れることはできずにいたが、転んだ瞬間に手をつきそのはずみで腕を強打、骨にひびが入る怪我を負ってしまった。

相当痛かったが、幸い入院することはなく接骨院に通い治療することになった。学校の帰りにそのまま接骨院へ直行することが毎日続き、一日おきの週3回のペースになり、良くなるにつれにつれ週1回通うことで、約2か月で完治した。当時は予約システムもなく、接骨院に行って順番待ちをするしかなかった。地元で評判のよいところだったのでいつも多くの患者さんが待っていた。待合室にあるコミックは端から端まで読み終えた。

ちょうどそのころにくしゃみが続いたため今度は耳鼻咽喉科に連れていかれた。腕に様々なアレルゲンを打ち、アレルギー反応テストがなされた結果、ほこりによるアレルギー性鼻炎と診断された。またここもしばらく通うことになった。

今の時代は、通院は親が付き添っていくが、当時は小学校高学年でも一人で毎日のように自転車で10分ほどの医院へ通った。ここもまた予約システムがあるわけではないので着いたら長椅子をつなげた列の椅子に順番に座って待つ。先に待っている患者さんが呼ばれるとひとつずつ席をズレていき、先生に最も近い場所で診察を待つ。

毎回待ち時間と治療で1時間ほどかかるが、ある時2時間近く待っても(次の順のはずなのに)呼ばれなかったことがあった。小学生の私は次呼ばれるだろう、また次は呼ばれるだろうと最前席で待っていた。

看護師さんも気づいていなかったが、ふと先生があそこ(最前席)でいる子は何だ?と看護師に確認をしてくれた。

すると私のカルテが他の人のものと混ざり収納されてしまっておりいつまでたっても順番がまわってこなかったことが発覚し、看護師さんも先生も私に平謝り。

先生はこちらも申し訳なかったが、順番がこなくておかしいなと思ったらすぐ言ってねとやさしく諭してくれた。この耳鼻咽喉科の先生は、私が1週間くらい通院をさぼったことがあり、そのときに厳しく叱られたことが印象に残っている。

長期にわたる継続した治療をしないと治りづらい病気だから継続しないと薬の効果が落ちる。これまで処置した薬がもったいないよとその時は母も呼び出されて言われた。今はこんなことを言ってくれる先生はいないと思うが、厳しくも優しい先生だった。

5年生の健康診断のときに今度は視力が左目1.5右目0.3乱視と診断された。大学病院を経て視力回復センターに通うことに。1年間通って右目は0.9まで回復した。自転車で20分かけて一人で通う根気強さが培われた。

治すと決めたら毎日のように通院し完治していく努力がみのり、6年生のときに健康優良児童として学校で一人だけ表彰された。40年経った今も視力は維持している。